坂本龍馬と🍶船中八策という日本酒(司牡丹)

純米で超辛口の気になっていた日本酒(高知県)を札幌の酒屋さんで見つけたので購入!

日本の北海道【札幌】旅行記の地図の119番へ

サッポロファクトリー近くの蔵太郎って店名

船中八策(せんちゅうはっさく)

飲食店でたまに見かける事がありましたが、昼間に見つけたので飲む機会は無く。酒屋さんで見つけたので買っちゃった🍶自転車で持ち帰ったのでガッタガタ少し泡立ってしまった残念(汗)日本酒やワインは繊細なので温度管理はもちろんの事、振動もあまり与えてはいけないらしい。味が変わる可能性があるので気をつけましょう。

ちなみに司牡丹は現地、高知県で飲んでお気に入りになった日本酒。

思ったよりも松山からの道のりは遠く、へとへと状態で辿り着いた足摺岬なのですが宿の温泉で癒されました そして、お楽しみの夕食の時間に...

瓶に付いてた冊子がこちら↑

坂本龍馬と船中八策の関係とは?

さあ今回も重要な文章の中身を読んでいきましょう!知らない事がたくさん書かれていた。ところどころにわかりやすく?解説を入れてみたり調べてみたりしましたので参考に〜

坂本龍馬とは?

龍馬は風である。 一八六五年から、一八六七年までの二年間、その風は、京、大阪、 長州、薩摩、長崎、土佐、そして越前に吹いた。

人々はその、海の匂いのする風を奇蹟の風と呼ぶが、城である男 は確かに、この島国に実在した。

土佐人は好んで彼を”いごっそう”の典型と見るが、彼にその 偏屈さはない。現代いごっそうと呼ばれるキャラクターは、明治維新 以降、薩長(中央)への劣等感として形成された。そのキャラクタ ーは龍馬には無縁である。龍馬は明るい。奔放である。型にははま らない。原始の風のように心優しい。

※ 土佐は高知県

幼年期の龍馬の風聞はかんばしくない。その、”鼻たれ伝説”を持 ぶ人もいるが、龍馬は唯単に時代に理解されなかっただけである。 腐敗した官僚の、その教育の、その常識の、外にいただけである。

※そんな前から 腐敗してたんなら今どうなってるの(汗)

「一八三五年(天保六年)土佐の裕福な郷士の家の次男として彼は 生まれる。一九歳で江戸へ留学。一年で帰国、新しい世界事情に通 じた河田小龍と交わる。再び江戸、帰国。そして二十八歳で脱藩。 土佐勤皇党盟主武市瑞山に”土佐にあだたぬ男”と嘆かせて。

風はこの頃より吹きはじめる。まだゆるやかではあるが、勝海舟 に私淑、海の学問を身につけ、世界のイメージを鮮明に脳裡に焼き つける。横井小楠、西郷隆盛、桂小五郎、と人脈を広げる。三十一 歳、長崎にて、日本初の貿易組織「亀山社中」を結成。

いよいよ風は海から内陸に向けて吹きはじめる。慶応二年、犬猿 の仲の薩長を説き伏せ、倒幕軍事同盟を成立させる。寺田屋脱出、 新婚旅行、土佐海援隊長就任、いろは丸沈没事件万国公法により勝訴、大政奉還を画策、新政府基案「船中八策」を起草。めくるめく ほどに風は吹き荒び、遂に徳川慶喜大政奉還を決意させる。無血 革命成就。

その二日後、一八六七年十一月十五日、京都近江屋にて盟友中調 慎太郎とともに憤死。行年三十三。満三十一歳という。

※憤死って何?調べてみると憤慨しながら死ぬ事、怒りのあまり死亡することとなっているが、どうやら暗殺されたらしいのです。誰にやられたのかは確定せず諸説あるとの事。

船中八策

司牡丹の超辛口 船中八策

※味が切れるわけでもなく、ずっとす〜っと続く余韻。こぶたちゃん曰く、もあんと来るのがないから飲みやすい。ある意味、後味がない。嫌味のない酒?などなど色々な表現が出来きそう。

慶応三年六月九日、龍馬は土佐藩船「夕顔丸」の船上にいた。長崎から京都に急ぐ旅であった。同乗者は土佐藩参政後藤象二郎や海援隊士陸奥陽之助、長岡謙吉らである。何のために急ぐのか。風雲 告げる京の状勢、一触即発の幕府と薩長の戦いを一大奇策をもって 回避させるためである。その奇策とは「大政奉還、十五代三百年 続いた徳川の政権を朝廷にかえし奉る。それ以外に、内戦とそれに つながる外国侵略を防ぐ方法はないという龍馬の案であった。それ を土佐藩から一橋慶喜将軍に提案させようとする急ぎ旅であった。

途上、龍馬は、無血革命成就後の新政体のあり方を説く。政治の方法を持たない朝廷のためでもあり、毛利将軍、島津将軍などとい う旧態依然の体制の成立を未然に防ぐためでもあった。 策は八つ、一言でいえば、天皇をいただいた民主政体(デモクラシー)の実現で ある。

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、制令よろしく朝廷より出づ べきこと。

一、上下議政局(議会)を設け、議員を置きて、万機よろしく公儀に決すべきこと。

一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備え官爵を賜い、よ ろしく従来有名無実の官を除くべきこと。

続いて外交条約のこと、憲法制定のこと、海軍拡張のこと、防衛 のこと、金銭レートのこと、が述べられ、長岡謙吉が文章化する。 そしてあとがきで、公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下 と更始一新せん、と結ぶ。 「この船中八策は「薩土盟約」や「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の綱領「五ヶ条の御誓文」につながるもので あるが抽象的な御誓文に比べるとより具体性のあるものといえる。

しかし、龍馬の願いは維新政府において十分に実現されるもので はなかった。貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院するのは、なんと龍馬死後二十三年、明治二十三年のことであった。

ソイの酒蒸し登場〜ほわんほわんと温かそうだ〜🐟船中八策にも良く合いました😋

司牡丹の由来

その起源は遙かである。 今を遡ること四百余年、関ヶ原の合戦直後、慶長六年(一六〇三年) のことである。

関ヶ原の勲功により、徳川家康から土佐二十四万石を賜った山内 一豊に伴い土佐に入国した深尾和泉守重良は首席国家老として、鉄 川領一万石を預かることになる。

その時深尾氏に従って来た商家の中には、酒造りを業とする「御酒屋」の名が見られた。深尾家出入りの御用商人で「名字・帯刀」 を許された格式ある酒屋であった。

以来今日まで、佐川の地に日本古来の醸造の正統が受け継がれる こととなった。 佐川は酒造の地として、もともと豊饒であった。周囲を山に囲まれ た海抜百米の盆地で、朝夕は涼しく、冬は凍て氷り、空気は清澄である。四国山脈の水を集め、ゆったりと流れる仁淀川の中流に位置 している。仁淀川の流れは豊富で、伏流水も多く、水質は極軟水で ある。この水からは良質の酒が造されやすいとされている。

この佐川の水は、坂口謹一郎著、岩波新書版「日本の酒」の中に “水と名酒”として登場する名水である。

佐川は又、歴史と文化の町でもある。幕末にかけて、幾多の名士 や勤皇の志士を輩出した郷校「名教館」があり、世界的植物学者の 牧野富太郎博士出身の地である。また勤皇の志士たちの遺で有名 な「青山文庫」等々、歴史と文化の香りがたちこめている。 「この歴史と文化と名水の町佐川に、匂うがごとき天下の名酒「司牡丹」が誕生したのは大正七年であった。佐川の醸造家五軒が結集 し、近代企業としての会社を創立したのである。そして、佐川出身 で当時宮内大臣であった田中光顕伯は、「天下の芳醇なり、今後は 酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、《司牡丹》と命名した。 「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」というのである。 その後、社名も司牡丹酒造株式会社とし、現在に至っている。

かんぱーい!

純米 超辛口 日本酒 船中八策

明治維新の大綱は、坂本龍馬の「船中八策」に よって確立されました。

21世紀に生きる貴方の大綱は?

酒豪龍馬の気分になって貴方自身の「船中八策」 を考えてみませんか?

四国山脈の連峰を源として太平洋へ流れる「仁淀川」は、 古来、神川と称され「風土記」の中に「神々に捧げるための酒造りに、この清水を用いた」と記されている。 清酒「船中八策」は、この清冽な仁淀川伏流水の極軟水を仕込水とし、佐川盆地の厳しい寒冷気象の時期 に、創業400余年の伝統と近代醸造技術の粋を結集し 醸造しております。 「淡麗辛口で、しかもキメ細やかな優しいまろやかさ が特徴です。 どうぞ、この芳醇な風味を心ゆくまで御賞味ください。

司牡丹酒造株式会社  高知県高岡郡佐川町甲1299番地

ホームページ

http://www.tsukasabotan.co.jp

以上

大綱っておおつなとは読まず、たいこうって読むらしい。たまにニュースなどで出てくる税制改正大綱の読み方は→ぜいせいかいせいたいこう。骨太の方針ってのも聞くけど違うことなんだろうか?とか気になって調べるといい記事ありました 骨太の方針

骨太の方針というのは通称なんですね。骨抜きの方針へ?骨太の方針をめぐる争いが、水面下で繰り広げられているらしいが。

今のこの日本政府(安倍政権)のみっともない現状を坂本龍馬はどう見てるんでしょうね〜

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