まずは沖縄のセブンと鳥居とシーサーのコラボレーション。
こっちは狛犬かな?
グーグルマップで気になるグスクを発見したのです。
奥武山公園の近くにそんなのあった!?
『行ってみるか!』
地図はさっきと逆だけど、10番の御物城が目的地。
とその前に
暑かったのでカフェで一休み〜
え!?
『作品にはお手を触れないでください』
いやいや、注意書きの場所考えてください(笑)
わしらよりマシじゃよ?
先程の地図の詳細。
立入禁止ってことで、対岸にあるフェリー乗り場に近づいたんだけど、よく見えない。
なので、わざわざ2階のベランダに行ってみた。
あれ!?
フェリーが居て結局見えない!!
残念だったね〜!(笑)
結局、地上かよと思い近づく!
これ!
奥武山のセルラースタジアム那覇から、写真左手が那覇空港方面、写真上部の明治橋を渡ると那覇市街です。
那覇港に突き出た形の埋め立て地の先っぽに、小さな緑が見えますが、かつて、そこには御物城(おものグスク)がありました。
明治橋のたもとからは、こんな風に見えます。米軍施設なので、中に入ることはできません。
御物城は、琉球王朝の宝物庫で、中国や東南アジアとの交易により手に入れた宝物が保管されていました。
当時、この宝物庫を管理していた役人の職位が御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)。倉庫の管理だけではなく、那覇の行政や貿易業務まで担当する立場で、役人の中では最も権力のあるポストだったようです。尚泰久王(百十踏揚のお父さん)の時には、金丸(後の尚円王)がそのポストにありました。
琉球処分の後、つまり、明治から大正、昭和にかけて、この場所には高級料亭「風月楼」がありました。次の写真です。
当時、那覇の料亭と言えば辻でしたが、風月楼は辻と違い、大和風の料亭でした。料理もヤマトで芸妓もヤマト。政治家や官僚、那覇の実業家などが使う料亭だったようです。
風月楼は沖縄戦で焼失しましたが、御物城の城壁の一部はまだ残っているようです。那覇軍港は近々返還される気配ですので、是非、グスクを復興させてほしいものです。
かつての三重城はホテルの裏庭みたいになり、屋良座森城は埋め立てられて跡形もありません。
せめてこのグスクは残しておかないと、かつての大交易港那覇の史跡が、本当に何も無くなってしまいます。
旅の家土産関連資料/参照:「絵はがきにみる沖縄」琉球新報発行P69ページ/海外貿易品の収蔵した首里王府の倉庫。明治時代に「風月楼」という大和風の料亭が建てられ1944年の10・10空襲の時まであった。現在の那覇軍港に遺溝が見える。/(1901頃)
御物グスクは中国をはじめとする諸外国との交易品を保管する倉庫として築かれたグスクです。国場川の中洲に築造された巨大な城壁のグスクで、那覇港に入港した海外からの船に対して琉球王国の威厳を見せつける効果も狙っていたと考えられています。「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」と呼ばれる役人が常駐しており、のちに尚円王となった金丸も尚泰久王の時代にこの重要ポストをつとめていました。その後、明治から大正、昭和にかけて高級料亭「風月楼」がありましたが、戦後は米軍によって埋め立てられ、那覇軍港の通信所がグスク内に設置されています。現在城址は立入禁止となっていますが、石積みやアーチ門などの遺構が残っています。那覇埠頭や明治橋から遠目に眺めることができます。
引用 御物グスク