純米で超辛口の気になっていた日本酒(高知県)を札幌の酒屋さんで見つけたので購入!
サッポロファクトリー近くの蔵太郎って店名
船中八策(せんちゅうはっさく)
飲食店でたまに見かける事がありましたが、昼間に見つけたので飲む機会は無く。酒屋さんで見つけたので買っちゃった🍶自転車で持ち帰ったのでガッタガタ少し泡立ってしまった残念(汗)日本酒やワインは繊細なので温度管理はもちろんの事、振動もあまり与えてはいけないらしい。味が変わる可能性があるので気をつけましょう。
ちなみに司牡丹は現地、高知県で飲んでお気に入りになった日本酒。
瓶に付いてた冊子がこちら↑
坂本龍馬と船中八策の関係とは?
さあ今回も重要な文章の中身を読んでいきましょう!知らない事がたくさん書かれていた。ところどころにわかりやすく?解説を入れてみたり調べてみたりしましたので参考に〜
坂本龍馬とは?
龍馬は風である。 一八六五年から、一八六七年までの二年間、その風は、京、大阪、 長州、薩摩、長崎、土佐、そして越前に吹いた。
人々はその、海の匂いのする風を奇蹟の風と呼ぶが、城である男 は確かに、この島国に実在した。
土佐人は好んで彼を”いごっそう”の典型と見るが、彼にその 偏屈さはない。現代いごっそうと呼ばれるキャラクターは、明治維新 以降、薩長(中央)への劣等感として形成された。そのキャラクタ ーは龍馬には無縁である。龍馬は明るい。奔放である。型にははま らない。原始の風のように心優しい。
※ 土佐は高知県
幼年期の龍馬の風聞はかんばしくない。その、”鼻たれ伝説”を持 ぶ人もいるが、龍馬は唯単に時代に理解されなかっただけである。 腐敗した官僚の、その教育の、その常識の、外にいただけである。
※そんな前から 腐敗してたんなら今どうなってるの(汗)
「一八三五年(天保六年)土佐の裕福な郷士の家の次男として彼は 生まれる。一九歳で江戸へ留学。一年で帰国、新しい世界事情に通 じた河田小龍と交わる。再び江戸、帰国。そして二十八歳で脱藩。 土佐勤皇党盟主武市瑞山に”土佐にあだたぬ男”と嘆かせて。
風はこの頃より吹きはじめる。まだゆるやかではあるが、勝海舟 に私淑、海の学問を身につけ、世界のイメージを鮮明に脳裡に焼き つける。横井小楠、西郷隆盛、桂小五郎、と人脈を広げる。三十一 歳、長崎にて、日本初の貿易組織「亀山社中」を結成。
いよいよ風は海から内陸に向けて吹きはじめる。慶応二年、犬猿 の仲の薩長を説き伏せ、倒幕軍事同盟を成立させる。寺田屋脱出、 新婚旅行、土佐海援隊長就任、いろは丸沈没事件万国公法により勝訴、大政奉還を画策、新政府基案「船中八策」を起草。めくるめく ほどに風は吹き荒び、遂に徳川慶喜に大政奉還を決意させる。無血 革命成就。
その二日後、一八六七年十一月十五日、京都近江屋にて盟友中調 慎太郎とともに憤死。行年三十三。満三十一歳という。
※憤死って何?調べてみると憤慨しながら死ぬ事、怒りのあまり死亡することとなっているが、どうやら暗殺されたらしいのです。誰にやられたのかは確定せず諸説あるとの事。
船中八策
司牡丹の超辛口 船中八策
※味が切れるわけでもなく、ずっとす〜っと続く余韻。こぶたちゃん曰く、もあんと来るのがないから飲みやすい。ある意味、後味がない。嫌味のない酒?などなど色々な表現が出来きそう。
慶応三年六月九日、龍馬は土佐藩船「夕顔丸」の船上にいた。長崎から京都に急ぐ旅であった。同乗者は土佐藩参政後藤象二郎や海援隊士陸奥陽之助、長岡謙吉らである。何のために急ぐのか。風雲 告げる京の状勢、一触即発の幕府と薩長の戦いを一大奇策をもって 回避させるためである。その奇策とは「大政奉還」、十五代三百年 続いた徳川の政権を朝廷にかえし奉る。それ以外に、内戦とそれに つながる外国侵略を防ぐ方法はないという龍馬の案であった。それ を土佐藩から一橋慶喜将軍に提案させようとする急ぎ旅であった。
途上、龍馬は、無血革命成就後の新政体のあり方を説く。政治の方法を持たない朝廷のためでもあり、毛利将軍、島津将軍などとい う旧態依然の体制の成立を未然に防ぐためでもあった。 策は八つ、一言でいえば、天皇をいただいた民主政体(デモクラシー)の実現で ある。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、制令よろしく朝廷より出づ べきこと。
一、上下議政局(議会)を設け、議員を置きて、万機よろしく公儀に決すべきこと。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備え官爵を賜い、よ ろしく従来有名無実の官を除くべきこと。
続いて外交条約のこと、憲法制定のこと、海軍拡張のこと、防衛 のこと、金銭レートのこと、が述べられ、長岡謙吉が文章化する。 そしてあとがきで、公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下 と更始一新せん、と結ぶ。 「この船中八策は「薩土盟約」や「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の綱領「五ヶ条の御誓文」につながるもので あるが抽象的な御誓文に比べるとより具体性のあるものといえる。
しかし、龍馬の願いは維新政府において十分に実現されるもので はなかった。貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院するのは、なんと龍馬死後二十三年、明治二十三年のことであった。
ソイの酒蒸し登場〜ほわんほわんと温かそうだ〜🐟船中八策にも良く合いました😋
司牡丹の由来
その起源は遙かである。 今を遡ること四百余年、関ヶ原の合戦直後、慶長六年(一六〇三年) のことである。
関ヶ原の勲功により、徳川家康から土佐二十四万石を賜った山内 一豊に伴い土佐に入国した深尾和泉守重良は首席国家老として、鉄 川領一万石を預かることになる。
その時深尾氏に従って来た商家の中には、酒造りを業とする「御酒屋」の名が見られた。深尾家出入りの御用商人で「名字・帯刀」 を許された格式ある酒屋であった。
以来今日まで、佐川の地に日本古来の醸造の正統が受け継がれる こととなった。 佐川は酒造の地として、もともと豊饒であった。周囲を山に囲まれ た海抜百米の盆地で、朝夕は涼しく、冬は凍て氷り、空気は清澄である。四国山脈の水を集め、ゆったりと流れる仁淀川の中流に位置 している。仁淀川の流れは豊富で、伏流水も多く、水質は極軟水で ある。この水からは良質の酒が造されやすいとされている。
この佐川の水は、坂口謹一郎著、岩波新書版「日本の酒」の中に “水と名酒”として登場する名水である。
佐川は又、歴史と文化の町でもある。幕末にかけて、幾多の名士 や勤皇の志士を輩出した郷校「名教館」があり、世界的植物学者の 牧野富太郎博士出身の地である。また勤皇の志士たちの遺で有名 な「青山文庫」等々、歴史と文化の香りがたちこめている。 「この歴史と文化と名水の町佐川に、匂うがごとき天下の名酒「司牡丹」が誕生したのは大正七年であった。佐川の醸造家五軒が結集 し、近代企業としての会社を創立したのである。そして、佐川出身 で当時宮内大臣であった田中光顕伯は、「天下の芳醇なり、今後は 酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、《司牡丹》と命名した。 「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」というのである。 その後、社名も司牡丹酒造株式会社とし、現在に至っている。
かんぱーい!
純米 超辛口 日本酒 船中八策
明治維新の大綱は、坂本龍馬の「船中八策」に よって確立されました。
21世紀に生きる貴方の大綱は?
酒豪龍馬の気分になって貴方自身の「船中八策」 を考えてみませんか?
四国山脈の連峰を源として太平洋へ流れる「仁淀川」は、 古来、神川と称され「風土記」の中に「神々に捧げるための酒造りに、この清水を用いた」と記されている。 清酒「船中八策」は、この清冽な仁淀川伏流水の極軟水を仕込水とし、佐川盆地の厳しい寒冷気象の時期 に、創業400余年の伝統と近代醸造技術の粋を結集し 醸造しております。 「淡麗辛口で、しかもキメ細やかな優しいまろやかさ が特徴です。 どうぞ、この芳醇な風味を心ゆくまで御賞味ください。
司牡丹酒造株式会社 高知県高岡郡佐川町甲1299番地
ホームページ
以上
※大綱っておおつなとは読まず、たいこうって読むらしい。たまにニュースなどで出てくる税制改正大綱の読み方は→ぜいせいかいせいたいこう。骨太の方針ってのも聞くけど違うことなんだろうか?とか気になって調べるといい記事ありました 骨太の方針
骨太の方針というのは通称なんですね。骨抜きの方針へ?骨太の方針をめぐる争いが、水面下で繰り広げられているらしいが。
今のこの日本政府(安倍政権)のみっともない現状を坂本龍馬はどう見てるんでしょうね〜