日本語名は民族共生象徴空間という難しいネーミングですが愛称はウポポイに決まったらしい。
英語表記ではナショナルアイヌミュージアムとかなんとか。
ウィキペディアみると英語ではAinu peopleってありました。
詳しくはこちら
愛称の選考についてのPDFあり
北海道の白老町に出来るとのこと。実はこの前行った札幌雪まつりでも看板とか雪像がけっこうありました。2020年4月24日オープン。
白老と言えば白老牛が有名、あと、虎杖浜のたら全国から高い評価を受けている、白老町自慢の特産品だとのこと。海沿いなので海鮮のイメージあり、車でいくと大きなカニを付けたおみやげ店も見かけると思います。
アイヌ物語。自然だけでなく動物、道具ありとあらゆるものに神が宿るという考え。クリックすればアップになると思います。
札幌にも大きい施設があるようだ。サッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター)
南部の定山渓の近くかな、定山渓は温泉で有名。
その隣の雪まつり会場、ポーランド広場で実に興味深い文章を発見!
文字に起こすと
アイヌ民族と、ポーランド人 ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ
アイヌ語を母語とし独自の文化を持つ先住の民族・アイヌは、かつては北海道のみならず北は樺太、東は千島列島全域、南は本州北端にまたがる広い地域に居住していました。
その姿を今に伝える白黒写真の多くは、実はひとりのポーランド人によって撮影された ものです。
彼の名はブロニスワフ・ピウスツキ。時代に激しく翻弄された彼の人生と功績につい てご紹介します。1866年に生まれたブロニスワフは、1886年ロシアのサンクト ペテルブルグ大学の法学部に入学しました。しかし翌年、時のロシア皇帝アレクサンド ル3世暗殺計画に関与したとされ、シベリアよりも遠く、北樺太に流されてしまいます。
流刑の地で彼は地域と先住民族文化の研究をはじめ、刑期が終わってからも北樺太で民俗学に没頭し、やがてアイヌ民族の研究に惹かれてゆきました。
1902年には南樺太に赴き、カメラと蝋管蓄音機を使いアイヌに関する資料収集を 始め、アイヌ人女性チェフサンマと恋をし、息子と娘を一人ずつもうけました。アイヌ の人々に教育の機会を作りたいという彼の情熱は家族ができたことでより高まり、南樺太にいくつかの学校を設立しました。しかし軌道に乗りかけた教育事業は日露戦争によ り振り出しに戻ります。
1906年に東京を訪れた彼は二葉亭四迷ら知識人と交流し樺太アイヌの救済を訴え ました。その後外国に渡りさらに波乱の人生を送りますが、アイヌ研究を着実につづけ、 1912年には長い年月と情熱を注いだ
『アイヌの言語・民話研究資料』を完成さ せました。ブロニスワフの弟は新生ポーラ ンド共和国の初代国家元首となったユゼ フ・ピウスツキです。
まさかポーランドとアイヌのつながりがあったとは!しかも今現存している白黒写真の多くはこの人の撮影だったと。
アイヌの文化、生活習慣も禁じられた日本のある時代が影響しているのでしょうか。
ウポポイ!ウポポイ!うぽぽいぽい!
ウポポイの意味はアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」
文字文化を採用しなかったアイヌには、自ら記した歴史記録がない。現代まで、正式に記録が残っている物は和人の視点からの物がほとんどである。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。
先程、北海道のNHK地方番組を見て知ったのですが、宇梶剛士氏がアイヌ文化の発信拠点「ウポポイ」をPRするアンバサダーを務めているとのこと。
なぜ?と思っていたのですが、母親がアイヌの人でルーツがあったんですね!全く知らなかった〜単なるタレントとか総長ではなかったのか。
最近アイヌについて自分から興味を持ち始めたそうで、母親も喜んでいる印象でした。