英語圏でみかんのことを「Satsuma(サツマ)」と呼ぶって知ってました?
これ、鹿児島を旅行中に知ったんですけど、由来をたどると幕末に薩摩藩(現在の鹿児島県西部)とイギリスの間で起きた「薩英戦争」に行き着くんです。
日本の一地方の藩が、当時世界最強のイギリス海軍と正面から戦った。しかも結果は”引き分け”。さらにそこから2年後には、戦った相手に留学生を送り込んでいる。
なんだこの展開、って感じですよね。鹿児島を歩きながらこの歴史を知って、ちょっと鳥肌が立ちました。
目次
- そもそも薩英戦争って?3分でわかる経緯
- 発端は「生麦事件」── 大名行列をナメたらこうなった
- 世界最強イギリス海軍 vs 薩摩藩、開戦の瞬間
- 薩英戦争の勝敗は?「引き分け」の真相
- イギリス側の被害が意外と大きかった
- NYタイムズも「日本を侮るな」と報道
- 賠償金は幕府に借りて踏み倒し…!
- 戦争の「その後」が一番すごい
- 敵同士から留学生派遣へ(昨日の敵は今日の友)
- みかんが「Satsuma」と呼ばれるのはこの時生まれた
- 明治維新の原動力になった薩英の絆
- 鹿児島で薩英戦争の痕跡を歩いてみた
- 西郷隆盛像──上野とは全然違う鹿児島の西郷どん
- 鹿児島の街歩きが面白すぎる
- 世界遺産・仙巌園と集成館のこと
- 知ると鹿児島旅行が10倍楽しくなる豆知識
- 西瓜売り決死隊の話(メンバーに後の大物がゾロゾロ)
- アームストロング砲の威力と薩摩藩の対抗策
- 「おいどん」精神は薩英戦争でも健在だった
- 参考資料
そもそも薩英戦争って?3分でわかる経緯
発端は「生麦事件」── 大名行列をナメたらこうなった
薩英戦争の原因は、その前年の1862年に起きた「生麦事件」にさかのぼります。
薩摩藩主の父・島津久光の大名行列が、現在の横浜市鶴見区にある生麦村を通過中のこと。馬に乗ったイギリス人商人4人が、行列の中に入り込んでしまったんです。
当時の日本では、大名行列に対して馬を下りて道を譲るのが常識。ところがイギリス人にそんなルールは分からない。結果、薩摩藩士が斬りかかり、チャールズ・リチャードソンという商人が死亡、2名が負傷する大事件に発展しました。
怒ったイギリスは幕府と薩摩藩に対して賠償を要求。幕府は賠償金10万ポンドを支払いましたが、薩摩藩は「犯人の逮捕処罰」と「賠償金2万5000ポンド」の要求をきっぱり拒否。「知らんがな」と突っぱねた形です。
世界最強イギリス海軍 vs 薩摩藩、開戦の瞬間
交渉が決裂した1863年7月(旧暦・文久3年)、イギリスは軍艦7隻を鹿児島湾に派遣。艦隊は薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕し、圧力をかけました。
これに対して薩摩藩は、なんと先制攻撃でイギリス艦隊に砲撃を開始。当時世界最強と言われたイギリス海軍に、日本の一藩が真正面から戦いを挑んだ瞬間です。
戦闘は台風接近中の暴風雨のなかで行われ、約2日半にわたって続きました。
薩英戦争の勝敗は?「引き分け」の真相
イギリス側の被害が意外と大きかった
結論から言うと、薩英戦争は「引き分け(痛み分け)」というのが通説です。ただ、数字を見るとちょっと印象が変わります。
薩摩藩側:死者5名、負傷者十数名。ただし鹿児島城下の約1割が焼失、集成館も破壊。
人的被害だけ見ると、薩摩の方が圧倒的に少ない。ただし、イギリスの砲撃で鹿児島城下の約1割が焼失。集成館や工場群も破壊されたので、物的な被害は薩摩側が大きかったのが実情です。
NYタイムズも「日本を侮るな」と報道
この戦争の結果は海外でも驚きをもって受け止められました。ニューヨーク・タイムズは「日本を侮るべきではない」という趣旨の報道をしたと言われています。当時の世界の常識では、アジアの一地方勢力がイギリス海軍相手にここまで戦えるとは誰も思っていなかったわけです。
賠償金は幕府に借りて踏み倒し…!
講和交渉の結果、薩摩藩は最終的にイギリスに賠償金2万5000ポンドを支払うことになります。
ただし、その金は幕府から借りました。しかも返済していません。
犯人の処罰についても「逃亡中で捕まらない」と回答して、結局引き渡さず。実質的には薩摩藩の要求がほぼ通った形で、「真の敗者は幕府だった」という見方もあります。この辺の外交センスも含めて、薩摩藩は只者ではない。
戦争の「その後」が一番すごい
敵同士から留学生派遣へ(昨日の敵は今日の友)
薩英戦争で最も驚くのは「その後」の展開です。
戦争からわずか2年後の1865年、薩摩藩はイギリスに19名の留学生を送り出しました。ついこの前まで砲弾を撃ち合っていた相手の国に、です。
五代友厚(ごだい ともあつ)── 大阪商工会議所 初代会頭。NHK朝ドラ『あさが来た』でディーン・フジオカが演じた役としても有名
長沢鼎(ながさわ かなえ)── カリフォルニアで「ワイン王」と呼ばれた実業家
(参考: 薩摩藩第一次英国留学生 – Wikipedia)
「やられたら学ぶ」。この切り替えの速さが薩摩藩の真骨頂で、敵から最新技術を吸収する姿勢が後の明治維新につながっていきます。
みかんが「Satsuma」と呼ばれるのはこの時生まれた
ここで冒頭のみかんの話に戻ります。
英語圏でみかん(温州みかん)が「Satsuma」と呼ばれるようになった由来には諸説ありますが、一説には薩英戦争の講和の際に薩摩が蜜柑を渡したのがきっかけとも言われています。
ただし、最も確実な記録としては、1878年に駐日アメリカ公使の妻であるヴァン・ヴァルケンバーグ夫人が薩摩地方の温州みかんの苗木をアメリカに送ったのが、「Satsuma」の名が広まった最初とされています(参考: Citrus unshiu – Wikipedia(英語版))。いずれにせよ、薩摩と西洋世界の接触がきっかけで、鹿児島のみかんが世界に広まったのは間違いありません。
明治維新の原動力になった薩英の絆
薩英戦争後、薩摩藩はイギリスとの友好関係を通じて最新の武器や軍艦を購入し、軍事力を飛躍的に強化。その力を背景に薩長同盟を結び、最終的には徳川幕府を倒して明治維新を実現させました。
つまり、生麦事件の「大名行列トラブル」から始まった一連の出来事が、日本の近代化の起点になっている。鹿児島を旅行してこの流れを知ったときは、ちょっとスケールが大きすぎて頭がクラクラしました。
鹿児島で薩英戦争の痕跡を歩いてみた
ここからは実際に鹿児島を歩いて感じたことを書いていきます。歴史の教科書で読むのと、現地で感じるのとでは全然違うんですよね。
西郷隆盛像──上野とは全然違う鹿児島の西郷どん

鹿児島に来たら西郷隆盛の銅像は外せない。上野の西郷さんは犬を連れた親しみやすい姿ですが、鹿児島の西郷さんは陸軍大将の軍服姿で、だいぶ印象が違います。堂々とした佇まいで、「ああ、この人が薩摩を引っ張ったんだな」と素直に思える迫力がありました。

西郷隆盛は薩英戦争の時期、島流しの最中だったので直接は参加していません。でも、薩英戦争で培われた「西洋に学ぶ」路線の延長線上に西郷の倒幕運動がある。鹿児島の街で西郷の銅像を見上げると、その歴史のつながりを肌で感じます。
ちなみに鹿児島市内には西郷ゆかりのスポットが点在していて、西郷隆盛洞窟(西南戦争の最後の5日間を過ごした場所)や西郷南洲顕彰館など、西郷どん巡りだけで半日は使えます。
鹿児島の街歩きが面白すぎる

鹿児島の街を歩いていると、いたるところに薩摩の文化が息づいているのを感じます。自動販売機にまで鹿児島弁が書いてあったのは笑いました。何が書いてあるか全然分からない(笑)。でもこういうのが旅の楽しさですよね。
路面電車が走るのどかな街並みなんだけど、ここが幕末に世界最強の海軍と戦った場所なんだと思うと、不思議な気持ちになります。

鹿児島を離れるときに見かけたお見送り看板。こういう温かさも鹿児島らしい。「また来んね」って言われたら、また来たくなりますよね。
世界遺産・仙巌園と集成館のこと
薩英戦争を語る上で外せない場所が、仙巌園(せんがんえん)と旧集成館。2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されています。集成館は島津斉彬が建てた近代工場群で、薩英戦争のイギリス艦隊の砲撃で破壊されましたが、戦後すぐに復興。「やられたら、むしろ相手の技術を学んでやろう」という薩摩スピリットの象徴のような場所です。
今回の旅では仙巌園には行けなかったので、次の鹿児島旅行では必ず訪れたい。桜島を借景にした庭園は鹿児島随一の絶景だそうで、所要時間は1〜2時間が目安とのこと。
知ると鹿児島旅行が10倍楽しくなる豆知識
西瓜売り決死隊の話(メンバーに後の大物がゾロゾロ)
薩英戦争で個人的に一番面白いと思ったエピソードがこれ。
イギリス艦隊が鹿児島湾に停泊していたとき、薩摩藩の若い藩士たちが「西瓜売りに変装してイギリス軍艦に乗り込み、艦を奪い取ろう」という破天荒な作戦を立てたんです。
真夏だったので、西瓜や果物、卵、魚肉などを小舟に積んで各艦に近づいたそうです。旗艦には40人ほどが乗り込むことに成功したものの、他の6隻は乗船を拒否されたため、全艦同時に斬り込む計画は実行できず、結局撤退。
黒田清隆(くろだ きよたか)── のちの第2代内閣総理大臣
西郷従道(さいごう つぐみち)── のちの元帥海軍大将。西郷隆盛の弟
(一次資料:『元帥公爵大山巌』第五章「薩英戦争と決死隊」)
もしこの作戦が実行されて全員戦死していたら、明治維新後の日本はまったく違うものになっていたかもしれません。歴史のifって怖い。
アームストロング砲の威力と薩摩藩の対抗策
イギリス艦隊が使用したアームストロング砲は、当時の最新兵器。薩摩藩の旧式砲の約4倍の射程距離を持ち、後装式(砲身の後ろから弾を込める方式)で連射性能も高かったそうです。
ただし、薩英戦争のときは台風の暴風雨で照準が定まらず、本来の性能を十分に発揮できなかったという記録があります。21門のアームストロング砲が365発を発射した際、28回の発射不能と1門の暴発事故が発生したとも。最新兵器でも天候には勝てなかった。
薩摩藩にとっては暴風雨が味方してくれた面もあったわけですが、この経験を通じて「西洋の砲の方が圧倒的に優れている」ことを身をもって知り、戦後すぐにイギリスから最新の武器を購入する方針に切り替えています。やられて学ぶ、という薩摩のスタイルがここにも。
「おいどん」精神は薩英戦争でも健在だった

鹿児島の街で見かけた「おいどんレンタカー」。西郷どんのキャラクターが付いていて、なんともいい味を出してました。「おいどん」は薩摩弁で「私」の意味。
薩英戦争を振り返ると、当時の薩摩藩にも同じ「おいどん」精神──自分たちの誇りを守りつつ、でも柔軟に学ぶ──があったんだなと感じます。
世界最強のイギリス海軍にも臆さず砲撃を始め、負けを認めずに講和交渉でも実利を取り、戦争直後には敵だった相手から技術を学ぶ。この器の大きさが、鹿児島という土地の魅力なのかもしれません。
鹿児島旅行では、食の美味しさや温泉はもちろん最高なんですが、こういう歴史の背景を知ってから訪れると、街の見え方がまったく変わってきます。鹿児島市内を歩くだけで、幕末から明治維新までの壮大なストーリーを肌で感じられるのは、この街ならではだと思います。
参考資料
鹿児島に行ったら、スーパーで名物の鳥刺しを買うのもおすすめです。
鹿児島には火山灰専用のゴミ捨て場がある、という衝撃の事実も。
鹿児島旅行では霧島神宮もセットでぜひ。
古代から続く鹿児島の歴史は温泉地にも。霧島温泉と熊襲の穴の話はこちら。
鹿児島の旅では枕崎の海鮮もぜひ。
鹿児島にも沖縄由来の石敢當(いしがんとう)がありました。

