
スリランカを旅していたとき、バスの車窓から緑の丘が広がった。なだらかな傾斜を埋め尽くす、鮮やかな緑の茶畑。「きれいだな」と思った。それだけだった。
でも後から調べてみると、あの緑の丘が背負っている歴史が、思っていた以上に重かった。
毎朝飲んでいる紅茶。その起源をたどっていくと、産業スパイ、阿片戦争、香港、そしてハンバントータ港——一本の糸でつながる帝国主義の話が出てきた。
目次
スリランカの茶畑に、タミル人の歴史が宿っていた

スリランカの中南部をバスで移動していると、緑の茶畑の合間にヒンドゥー教の寺院がひっそりと建っているのが見えた。仏教国のスリランカで、なぜここにヒンドゥー寺院が?
それは、茶畑の歴史と関係していた。スリランカのハイランドに広大な茶園が開かれたのは19世紀、イギリスの植民地時代のことだ。茶葉の摘み取りには大量の労働力が必要だったため、イギリスは南インドからタミル人を大量に連れてきた。その子孫たちが今も農園で働き、ヒンドゥー教を信仰し、あの丘の上に寺院を建てて暮らしている。
茶畑は「自然の風景」じゃなかった。人が動かされ、文化が移植された、歴史の痕跡だった。
スリランカのハイランド、ヌワラエリヤは標高約1,800mにある高原都市。かつてイギリスの植民地支配者たちが「リトル・イングランド」と呼んで愛した避暑地で、コロニアル様式の洋風建物が今も残っている。あの「植民地感」のある赤い屋根の建物は、その名残だ。

紅茶はもともと中国のものだった——「盗んだ」のはどこの国か
そもそもお茶は、中国で生まれたものだ。紀元前2700年頃から薬用として使われ始め、唐の時代(618〜907年)には庶民の飲み物として定着していた。それが日本にも伝わり、遣唐使を通じて茶道文化へと発展していった。

ヨーロッパに最初にお茶を届けたのは、オランダだ。1609年に徳川家康から正式な貿易許可を得て、日本の平戸に商館を設けたオランダ東インド会社は、翌1610年に日本の緑茶をヨーロッパに輸出した——一説では、これがヨーロッパへもたらされた最初の茶だとも言われている。ポイントは「正規の貿易」だったこと。オランダは中国からも正規に茶を買い付けていた。
では、「盗んだ」のはどこか。イギリスだ。
| 🇳🇱 オランダ東インド会社 | 🇬🇧 イギリス東インド会社 | |
|---|---|---|
| 茶の入手方法 | 正規の商取引で購入 | 産業スパイで技術ごと盗む |
| 日本との関係 | 鎖国下も唯一の貿易相手 | 貿易なし |
| 中国への対応 | バタヴィアで商人から購入 | アヘンを密輸→戦争 |
| 歴史的評価 | 正当な貿易商人 | 「最も不道徳な帝国」と批判も |
17世紀後半、イギリス宮廷に紅茶が広まってから、イギリスは中国茶の輸入に依存するようになった。茶の代金として大量の銀が中国に流出し、貿易赤字が膨らむ。そのとき、イギリスは「盗む」という選択をした。

ちなみにハンバントータへ向かうバスの車窓から、道路沿いに巨大なティーポットのオブジェが突然現れて「なんだあれ!?」となったことがある。スリランカには至るところで紅茶の存在感がある。
ロバート・フォーチュン——史上最も成功した産業スパイの話
1848年、イギリス東インド会社はスコットランド出身の植物学者、ロバート・フォーチュン(1812〜1880)に密命を与えた。「中国に潜入し、茶の苗木と製法を持ち出せ」。
- 🎭 変装:中国人の服を着て髪型を変え、外国人立入禁止区域へ潜入
- 🌿 第一次潜入(1848年):緑茶の産地・安徽省へ。茶の栽培・製造工程を詳細に記録
- 📦 密輸:一説には数千本から2万本規模の茶の苗木と種子を「ウォードの箱」に入れて輸送
- 👨🌾 人材ごと:中国人の熟練製茶職人を違法にインドへ連れ出し、技術を完全移植
- 🍵 第二次潜入(1852年):紅茶の産地・福建省の武夷山へ。太平天国の乱の最中でも活動継続
この作戦が成功したことで、インドのダージリンやアッサム、そしてスリランカ(当時セイロン)で大規模な茶の栽培が始まった。中国が数百年間にわたって守り続けてきた茶の独占が、一人の男によって破られたのだ。
歴史家の間では「史上最も成功した産業スパイの一人」と評されることもある人物だが、当時のイギリスでは英雄的な植物採集家として扱われていた。視点によって、評価はまったく変わる。
今、僕たちが当たり前のように飲んでいるスリランカ産・インド産の紅茶は、フォーチュンが中国から盗み出した技術から生まれたものだ。一杯の紅茶の歴史を知ると、少しだけ味が変わる気がする。
茶の赤字が招いたアヘン戦争——「最も不道徳な戦争」
産業スパイの話だけでも十分すごいが、この時代のイギリスはもっと直接的な手段も使っていた。
茶を大量に輸入した結果、イギリスから中国への銀の流出が深刻になっていた。そこでイギリスが考え出した「解決策」が、インドで栽培したアヘン(麻薬)を中国に密輸することだった。アヘンの代金で茶を買う三角貿易の構造だ。
1839年、中国(清朝)の林則徐がアヘン約1,200トンを没収・焼却し、貿易禁止を宣言すると、イギリスはこれを「財産権の侵害」として戦争を起こした。第一次アヘン戦争(1839〜1842年)だ。イギリス議会での開戦決議は、わずか9票差(271対262)での可決だったという——それだけ国内でも批判が多かった戦争だった。
第一次アヘン戦争の結果、1842年に香港島がイギリスへ割譲。さらに1898年には新界が「99年間」租借された。この「99年」という数字が、後のスリランカで奇妙な形でよみがえることになる。
ハンバントータ港——歴史は繰り返すのか
スリランカを旅していたとき、マータラからローカルバスに乗ってハンバントータ方面へ向かったことがある。途中から道路が急に広くなった。「だだっぴろい」という表現がぴったりな、整備されすぎた幹線道路だ。

「噂のハンバントータ」——バスの中で思った。この辺りには、中国の融資で建設された港があることを知っていたからだ。

ハンバントータ港は2010年代、中国からの融資(約15億ドル)で建設されたが、スリランカは返済ができず、2017年に運営権を99年間、中国の国営企業に譲渡することになった。
香港:1898年、イギリスに99年間租借された(1997年返還)
ハンバントータ:2017年、中国に99年間の運営権を渡した(2116年まで)
かつてアジアを収奪した側の手法を、今度は別の大国が使っているように見える——そんな構図だ。

港のゲートの前では、牛が道路をのんびり横断していた。地政学的に重要な場所と、牛の組み合わせがシュールだった。
もちろん、「債務の罠外交」という批判に対し、中国側は「ウィンウィンの協力関係」だと反論している。どちらが正しいのか、旅行者の僕には判断できない。ただ、スリランカを歩いていると中国語の看板が増えたこと、現地の人に「チャイニーズ?」と聞かれることが増えたこと——それは肌で感じた。
旅を終えて——一杯の紅茶の重さが変わった
スリランカから帰ってきて、紅茶を飲むたびに少し考えるようになった。
茶葉は中国から始まり、産業スパイによってインドとスリランカに移植され、植民地支配の歴史の中で世界に広まった。今もスリランカの丘で摘まれた茶葉が、世界中のカップに注がれている。
その一杯には、フォーチュンの変装、アヘン戦争、香港の99年、ハンバントータの99年——いろんな歴史が詰まっている気がして。
スリランカに行く機会があれば、ぜひハイランドの茶園にも足を運んでみてほしい。あの緑の丘を自分の目で見ながら飲む一杯は、きっと普段とは違う味がすると思う。
ヌワラエリヤへはキャンディから出発する「紅茶列車」で向かった。車窓の両側にずっと茶畑が続いて、山を登るにつれて空気がひんやりしてくる。ゆっくりと走る列車の中で、「あの茶葉が盗まれた技術から生まれたものだ」なんてことは何も知らずに、ただきれいだなと思いながら外を眺めていた。知ってから見る景色と、知らずに見る景色は全然違う。次にスリランカに行くなら、もう一度あの列車に乗りたいと思っている。
バスでハンバントータ港の前を通ったときの話はこちらの記事に詳しく書いた。スリランカの旅の写真はまとめて蔵出し写真記事(全28枚)でも見られる。

